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 ふれあい交流館(御座所跡) ふれあいこうりゅうかん(おましどころあと) 

 島津藩主が来山の時、御座所となったところ。御座所の床は石で囲まれて賊の侵入を防いだという。
明治期までは立派な正門と黒塗りの西門が残っており、西門は藩主来山の時だけ開けたという。
現公流館のいぬまきの大木のところが庭園であったといい、当時の名残りを残している。この下の地域は御座下といわれており、商店が軒をつらね賑わったところである。

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 金山奉行所跡 きんざんぶぎょうしょあと 

 金山奉行所は、開発と同時に置かれたと思われる。全盛期には金山奉行のほか山奉行、町奉行、物奉行の役も置かれ、鹿児島から赴任の50名、地元役人約150名が、御座の周辺やそれぞれの部署毎の建物で勤務していた。
江戸末期産金量の減少に伴い役所機構も縮小された。ここはその頃の奉行所跡で、金山奉行、物奉行、書役などが執務していた場所である。

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 山先役宅跡 やまさきやくたくあと 

 「山ヶ野金山御取建之由緒」では山先役扶持年五十石とある。また幕府巡検使の山先役は何の役かの問いに「山詮議沙汰之事は、山先役にて諸事沙汰仕り、役人方へ伝え下知候儀取次仕役御座候」とある。

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 とじ山抗 とじさんこう 

 とじ山抗は明治基幹坑道のひとつ。高さ1.9m、幅1.5m、三番滝抗より190m高い。この坑口の周りに幾つかの坑口があり、この様子は藩政時代の鉱山所の形を表している大変貴重な遺跡である。
鉱石は山ヶ野搗鉱所(精錬所)へ運んでいたが、のち大正5(1916)年ごろ永野へ坑内搬送できるようになった。

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 自稼堀坑 じかぼりこう 

 山ヶ野金山操業の形態の一つに自稼請負があった。鉱業主と契約を結び、鉱山内の個人採掘権を得て産金を鉱業主に買ってもらう形で、「自稼」と呼ばれた。小さな坑道、水車搗鉱(とうこう)などあり、屋敷内での操業もあった。