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大隅国分寺跡 おおすみこくぶんじあと
『弘仁式(820年成立)』に国分寺の運営費に充てる稲の支給記録があり、平安初期には存在した。
寺の跡には、六重の石塔が建っている。石塔二重目塔身に「康治元年壬戌十一月六日」の刻銘がある。
康治元年は1142年で、鎌倉幕府成立(1192年)より50年前に造られたことが分る。他に六観音が彫られた天正10(1582)年の再興石碑、仁王像2基などがあり、周辺からは国分寺創建時の布目瓦が多量に出土した。
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舞鶴城跡 まいづるじょうあと
慶長9年、舞鶴城を築き、富隈城から移った義久は街並みを京都の町に倣い碁盤の目のように造った。
舞鶴城は89間四方(一辺約190m)と推測される。義久没後(慶長16年)は三女の亀寿が城を守った。
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金剛寺跡 こんごうじあと
五峯山龍護院金剛寺は、慶長9(1604)年、島津義久が祈願所として建てた寺。開山は初代覚遍(乗林寺の僧)。
鹿児島本府、大乗院の末寺で真言宗。 敷地内には島津義久の供養塔(三重石塔)、真応上人の入定石室、西南の役、日清戦争、日露戦争の慰霊碑等がある。
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遠寿寺跡 おんじゅじあと
永禄3(1560)年に創建された法華宗の本成寺。妙蓮の娘亀寿が義久の死後、元和9(1615)年に寺を再興して遠寿寺と改名した。
廃仏毀釈により、明治初めに毀され、現在墓地のみ残る。一段高い岩屋の中に、島津義久夫人の円信院妙蓮(法名)を中心にした供養塔がある。法華経独特の様式でこの地域では珍しいもの。