隼人の盾 はやとのたて
1963年(昭和38年)、奈良平城京跡の井戸から出土している。鋸歯の紋様には、呪力の意味があり、上下二重につけられた紋様が鋭い歯先を持って噛み合わされるように描かれ、相手に脅威を与えた。
又、中央には逆S文字の渦巻紋が黒、丹、白の三色で描かれており、これを回転させることによって、相手が吸い込まれそうな不思議な呪力のごとき力を持つことができた。
隼人塚 はやとづか
祟りを恐れて霊を慰める行為は、太古の昔からあったと思われる。しかし、我が国の歴史に残る最古のものは隼人族の慰霊だろう。
祟りの激しさでよく知られている菅原道真の霊を鎮めるために北野天満宮が創建されたのは西暦947年で、その慰霊行為の歴史は約1100年である。これに対して、隼人族の慰霊の歴史は約1300年である。
この地に対する大和朝廷の一方的な支配に対する隼人の抵抗は激しく、それだけに敗れた後の無念さは大かったのだろう。その怨念の激しさに朝廷側は恐れおののいたという。
熊野神社 くまのじんじゃ
熊野神社は、文禄4(1595)年に島津義久が富隈城の築城時に勧請し、社殿が建立された。浜之市の鎮守で、祭神はイザナギノミコトとコトサカオノカミ、ハヤタマオノカミ。
神社は義久の死後荒れていたようで、義久の三女亀寿が再興したと記録されている。
神社の入り口には、明治38年に用水路を通すとき掘り出された仁王像が立っている。
富熊城跡 とみくまじょうあと
文禄4(1595)年豊臣秀吉により隠居させられた義久が築いた。義久は慶長9(1604)年に国分の舞鶴城に移るまでの9年間居城した。
天守閣のない屋館造り、守りに弱い城で、秀吉に恭順の意を表するためだったと言われている。
稲荷山 いなりやま
頂上からは隼人(浜之市)港、干拓地帯が一望のもとに見渡せ、その先には神造り小島、桜島が錦江湾に浮かぶ。
桜の名所としても人気で、シーズン中には約100本もの桜が咲き、観光客を魅了している。